≪Ⅰ 運動とホルモン環境の変化≫ 1.スポーツとメンタルヘルス関連ホルモン
https://doi.org/10.57554/2024-0035
はじめに
現代社会では、科学技術の発達と生活の利便性向上により身体を動かす機会が減少し、種々の生活習慣病を発症させる要因となっている。また、information technology(IT)の普及に伴い、巷に溢れた情報が精神的な負担となり、うつやストレスの原因となっている。こういった健康を蝕むさまざまな脅威に直面する現代人にとって、主体的に運動・スポーツに親しむことは、体力の維持・増進、疾病やうつの予防、ストレスの軽減など、心身の健康に大きな効果をもたらすことが期待されている 1)。
心身での健康は脳と身体が互いにうまく調節し合って達成できるが、これらを仲介するルートの一つが血流であり、ホルモンをはじめとする種々の化学物質を運んでいる。古典的には、脳の視床下部と下垂体からは、ストレス応答に関わる副腎皮質をはじめ、甲状腺、生殖器などの内分泌器官にホルモンを分泌させるための指令(分泌刺激ホルモン)を血中に放出することが知られてきた。しかし、近年、視床下部をはじめ脳中枢は、消化管から血中に分泌されるグレリンやpeptide YY(PYY)、glucagon-like peptide-1(GLP-1)といったホルモン、脂肪組織から分泌されるレプチンなどの情報を身体から受け取り、空腹・満腹感といった食欲や身体のエネルギー状態を調節する働きを有するなど 2)、脳と身体の連関に関わる多くのホルモン群が注目されてきた。さらに、こうした脳と身体の関わりは、視床下部など限られた脳領域でなく、海馬もさまざまなホルモンや液性因子による身体からの刺激を敏感に受けて、また海馬自らもこれらを産生し、構造的・機能的に変化して(萎縮や神経可塑性)、認知機能に正負の影響を与えることも明らかになってきている 3)。
以上に挙げたように、ストレス応答、食欲、認知機能に影響を与えるホルモンは、いずれもヒトのメンタルヘルスに関わると考えられるが、興味深いことに、これらの作用は身体を動かすことにより修飾されることが分かってきている。そこで、本稿では種々の運動・スポーツが脳と身体をつなぐ、これらのメンタルヘルス関連ホルモンに対して与える影響について紹介する。
1. ストレスホルモンとスポーツの関係
ストレスとは、外部からのさまざまな圧力(ストレッサー)によって、生体の恒常性(ホメオスタシス)が崩れた状態とそれに伴う動的適応反応(アロスタシス)を指す 4)。ストレッサーには、物理化学的なストレッサー(暑さ、騒音、薬物など)のほか、心理・社会的ストレッサー(仕事・家庭での問題、人間関係など)がある。運動も人体のほとんどのシステム(循環器、呼吸器、筋骨格など)に負荷をかけるストレス状況を生む。どのような原因のストレスであっても、中枢から末梢にまで存在する共通の神経内分泌系により処理されている。このストレス反応を担う系には、主に、視床下部から下垂体-副腎皮質へとつながるhypothalamus pituitary adrenal axis (HPA系)と、脳幹部の青斑核/ノルアドレナリン細胞から遠心性交感神経-副腎髄質へとつながる系が知られている。特に前者に関しては、下垂体前葉から副腎皮質刺激ホルモン(adrenocorticotropic hormone:ACTH)やβ-エンドルフィンが、さらにACTHの刺激により副腎皮質から糖質コルチコイドの一種であるコルチゾールがそれぞれ血中に分泌される。コルチゾールは、脂肪細胞の中性脂肪を遊離脂肪酸とグリセロールに加水分解させるほか、肝臓での糖新生を促し、エネルギー源としてさらなる糖質を供給する。そのほか、運動中では血管機能を調節し、免疫/炎症反応を制御することにより、運動誘発性の筋肉損傷の重症度を軽減する。β-エンドルフィンは神経伝達物質であり、一部は末梢血中に放出されるが、その作用は基本的に脳中枢で発揮される。HPA系や脳脊髄への上行性伝導を阻害することで、ストレスや疼痛を緩和させ、快楽を感じさせる方向に働く。また、長距離走などで苦しい状態が続くと、β-エンドルフィンが脳内で産生されて、それにより快感を覚えるようになるという「ランナーズ・ハイ」と呼ばれる現象が有名である。