リン酸化によるシグナル伝達
https://doi.org/10.57554/2024-0057
はじめに
多細胞生物、特に高度に発達した生命体が生きるためには、環境に応じて生体の機能を素早く制御し、生体の恒常性維持を図る仕組みが必要である。そうした仕組みは異なる細胞同士が相互に情報をやり取りすることによって可能になるが、こうした細胞間情報伝達の方法の一つが液性因子を介した細胞間のコミュニケーションである。
こうした液性因子は古典的にホルモンと呼ばれるものに相当する。特定の細胞から分泌されたホルモンが標的細胞の細胞表面にある特異的な受容体に結合すると、受け手の細胞内ではホルモンに応じた特異的なシグナルが伝達され、特定の遺伝子発現、運命決定や蛋白の分泌が起きるなど、細胞応答として細胞の状態が変化する。では、このような細胞応答の過程で、シグナルはどのように細胞内を伝わり、その機能の発現を引き起こしているのだろうか。
細胞の性質変化が起きるとき、最も考えやすいのは遺伝子の発現変化と、それに引き続くタンパク質の翻訳の変化が介在するケースだが、この場合は遺伝子の転写と翻訳という時間のかかるプロセスが必要であり、より素早い応答が必要とされる環境では遅すぎる場合もある。また、そもそも遺伝子の発現制御は核内で起こる現象であるため、細胞にとっては少なくとも細胞表面から核内までシグナルを伝達するメカニズムが必要であり、これにも迅速な伝達手段が必要である。本稿で述べるタンパク質のリン酸化とは、細胞内においてこうした素早いシグナル伝達を可能にしている代表的なメカニズムの一つであるといえる。
1.リン酸化とは
タンパク質のリン酸化は、遺伝子変化を介さないタンパク質の性質変化、すなわち「翻訳後修飾」と呼ばれる修飾の中で最もよく研究されたものの一つであり、遺伝子の発現変化を介する必要がないため、細胞内の素早い応答を可能にしている。化学的に見た場合、リン酸化とは、キナーゼ(タンパク質キナーゼ)と呼ばれる酵素がATPの持つリン酸基を標的タンパク質の特定のアミノ酸に付加する反応である。この反応はATPのリン酸基がアミノ酸のヒドロキシル基(OH基)に攻撃される形で起きるものであるため、リン酸化が生じるのはOH基を有するアミノ酸のみである。すなわち、セリン(Ser:S)、スレオニン(Thr:T)、チロシン(Tyr:Y)の3種類のアミノ酸のみがリン酸化を受けることになる(図1)。
リン酸基はO-を2分子有しているため、リン酸化されたアミノ酸ではその親水性および電荷が大きく変化する。この親水性および電荷の変化の結果、リン酸化されたアミノ酸が安定に存在できる位置が変化し、これに伴ってタンパク質全体で立体構造の変化が生じる。こうした構造変化の結果、タンパク質の機能の変化、あるいは別のタンパク質との相互作用が起き、その結果として下流のシグナル経路に影響が及ぶ。このように、「アミノ酸極性の変化を介した標的タンパク質の立体構造の変化」に基づいて、異なるタンパク質に次々と影響が及んでいく現象が、タンパク質のリン酸化による細胞内情報シグナル伝達の本体である。一方で、このリン酸基は脱リン酸化酵素によって除去されることもあり、脱リン酸化が起きると、タンパク質の立体構造は元の状態に戻ることができる。こうしたリン酸化・脱リン酸化の反応により、細胞内のシグナルは素早くonとoffとが可逆的に制御され、柔軟な細胞内シグナルが可能になっている。