第3回 シャルル・ド・ゴールと白内障
フランスの国際空港にその名前を冠するシャルル・ド・ゴール(図)は1890年11月22日、フランスのリールに5人兄弟の3番目として生まれた。ド・ゴール家は古い有産階級の家柄で父のアンリはパリのイエズス会系私立学校の平服教授であった 1, 2)。ド・ゴールは1909年から1912年にかけて陸軍士官学校に在学した。入学時の成績は221人中119番目であったが、卒業時は13番で少尉の位であった 2)。卒後に配属された部隊で、後に第一次世界大戦の英雄となるペタン大佐と邂逅した。ペタンとド・ゴールはナチス・ドイツとの戦いでは反目しあうこととなったが、ド・ゴールの能力を認め取り立てたのはペタンであった。第一次世界大戦でド・ゴールは三度負傷し、ドイツ軍の捕虜となる経験をした 3)。
1940年ド・ゴールは第四戦車師団を率いてドイツと闘っていたが、6月レイノー内閣の下、陸軍の次官に任命され、イギリスの参戦を取り付けるべくロンドンに派遣された 3, 4)。しかし、レイノー政権は同月に倒壊し、内閣を引き継いだペタンの政府はナチスに協力をした。ド・ゴールはロンドンよりBBCの放送を通じてフランスに抗戦を呼びかけ、1944年6月にフランス共和国臨時政府を発足させると、レジスタンスと共闘し8月25日にパリを解放、9月に臨時政府を樹立、1946年1月、他政党との確執から首相を辞任したが、1958年、アルジェリア民族解放運動を契機として政権に返り咲いた 3)。
68歳で大統領となったド・ゴールには持病があった。糖尿病である。主治医のアンドレ・リシュウィツ博士は内分泌の治療を専門としていた。ド・ゴールの場合、この代謝異常は用心や食事療法、化学薬品によってコントロールされていた。ド・ゴール夫人は政治のかしましい騒ぎには無関心であったが、陰ながら夫の健康を気遣い食事療法の献立を命じ、酒や料理を過剰にならないよう料理長に指示していた。ただ、狩りなど婦人が招かれない会では美食を楽しんでいたようではある 4)。
大統領就任の2年前、ド・ゴールは白内障の手術を行った 4, 5)。白内障の原因は加齢によって生じる加齢性白内障が最も多いが、糖尿病も原因となり得る。また、紫外線、喫煙が加齢性白内障のリスク因子として挙げられる 6)。当時の白内障の術式は眼内から水晶体を除去するもので、レンズの役目を補うため術後は眼鏡が必要であった。しかしド・ゴールは、伝説的人物のイメージを保つため、公衆の面前では眼鏡をかけなかった 5, 6)。白内障手術の翌年、ド・ゴールは主治医に禁煙を指示されている。そして、1969年4月に断行した国民投票によって自身の提案が否決されたとき、みずから職を辞したが、それまでは老いと病に蝕まれつつも精力的に働き、1970年11月9日79歳で死去、死因は解離性動脈瘤の破裂であった 3, 4)。
著者のCOI (conflicts of interest)開示:本論文発表内容に関連して特に申告なし